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アポなし訪問で林野庁へ!憧れを力に国際貢献の道を突き進む

卒業生の活躍

アポなし訪問で林野庁へ!憧れを力に国際貢献の道を突き進む

霞が関の壁を越えて、海外派遣で地球を巡る

再入庁後、また新人研修からはじまって本庁に1年、広島営林署に2年勤務しました。そして希望どおり他2名の女性の先輩と共に、計3名が1996年に林野庁から初めて海外に派遣する女性職員としてノミネートされ、自分はインドネシアはバリ島のマングローブのJICAプロジェクトに森林経営の専門家として派遣されることとなりました。他の先輩2名はチリとマレーシアにそれぞれ派遣されました。その後約30年、海外留学(2年)、国連、国際機関、JICA出向による海外勤務(13年)、霞が関の本庁/省で国際協力・気候変動枠組条約交渉・経済連携協定交渉担当(11年)と全期間を国際関係のキャリアで過ごしてきました。1年以上住んだ国は8カ国、1日以上滞在した国は59ヶ国になります。

国家公務員の世界では、優秀な人は霞が関の官庁街半径100メートル以内から出ず、どんどん出世していくもの、と先輩職員から聞いていました。そこから思いっきり外れ、地球を何周も回ってきた自分は、キャリア的には「大ハズレ」ということになります。明大ワンゲル出身の野生児であり、「あいつはどこでも生きていける」とみなされてきたということもありますが、それだけではありません。

初めての海外勤務だったインドネシアで世界観を覆される経験をしました。このことは後段で詳しく書きますが、もっと深く開発の勉強をしたいと、JICAが公募していた海外留学奨学金の試験を受験して合格、英国と米国の2つの大学に修士留学させてもらいました。

現在は休職制度がありますが、当時は私のように一度海外勤務した職員で留学した前例はなく、「帰国後はどこにでも赴任します」と宣言して出発しました。今年25歳になる娘には苦労をかけましたが、こんな母親のせいで海外を連れまわすことになってしまったものの、逞しく成長し自分の道を猛進してくれています。

1997年11月JICAマングローブプロジェクトサイト(ロンボク島)

世界の現場で見た「理不尽」、翻弄される人々と向き合う

さて、最初の赴任地インドネシアで経験したことです。1997年末の着任早々、アジア経済危機の渦中にインドネシアが巻き込まれ、着任時1ドルあたり2000ルピーで交換できた通過レートが、3か月後には1ドル17000ルピーに下落しました。多くの物資を輸入に頼っていたインドネシアでは、急激な物価上昇に人々の生活は困窮を極め、各地で政権転覆を目指す暴動が起きていきました。

自分の家の5軒隣の家が焼かれ、目の前で街路樹がなぎ倒され火を放たれ、商店への略奪が始まりました。手に手に武器を持ち、こちらに向かってくる群衆に気づき、車を急転回して命からがら逃げたこともありました。1998年5月、外国人排斥運動が活発化し、全員国外退去となりましたが、スハルト政権が退陣してほどなく、インドネシアに戻ることができました。

なぜ?漁民夫婦との悲しい別れと学びへの決意

そんな2年間、西はスマトラ、カリマンタン島から東はニューギニア島まで様々なマングローブ林で調査を行いました。都市で生活できなくなった人々が田舎に帰り、最も簡易に現金を得る手段として木を伐採し薪や木炭として売る生き残り戦略をとっていました。

インドネシアは全ての森林は国有とされています。無許可の伐採はもちろん違法なのですが、とても取り締まれるような状況ではありませんでした。熱帯雨林伐採後、オイルパーム林に変えられ、マングローブ林はエビ養殖池に転換されていきました。

オイルパームは20年から25年で収量が落ち、また別の熱帯雨林を伐採することになり、エビ養殖池も数年で餌や抗生剤を大量に使用するので数年で生産性が落ち、別のマングローブ林を伐採していくことになっていました。

ある日、マングローブ林で生活する漁民夫婦を訪問すると「お願いだからこの漁網を買ってくれ」と言われました。「これがなくなったら、明日からどうやって魚を捕るの?」と聞きましたが、もう今日生活するお金がないのだ、と首を振るばかりで、共にただ泣くことしかできませんでした。

イメージ:美しいマングローブ林は世界中で面積を減らしつつある

──この時、初めて「開発とは何か」を本気で考えました。

世界経済に翻弄される人々と人々が生きる環境。なぜこんなことが起きるのかそしてどうしたら地域住民が望む環境を守ることができるのか、理論と手法を体系的に学びたいと思い留学を決意しました。

イギリスのロンドン大学に到着したのは2002年のこと。911の後に開始されたイラクへの英米攻撃に反対する市民の大規模デモが起きていました。続けて留学したアメリカのイェール大学は当時の現職大統領の出身校でもあり、大変な反政府運動が盛りあがっていました。

WFP国連世界食糧計画アジア局に勤務するためバンコクに着任した2008年、今度は世界食糧危機がはじまり、出張したエチオピアでは飢餓に陥った1千万人を対象に大規模なオペレーションが実施されていました。飢えてやせ細った人々に取り囲まれ「お金を、食糧を」と訴えられました。米国オバマ政権下、気候変動対策への期待から世界中で土地価格が高騰する中、WFPに続けて2010年から4年間派遣されたモザンビークでは、巨大な国際的圧力が押し付けてくる様々な理不尽に、モザンビークの人々が望む政策・組織を守るためにモザンビークの同僚たちと必死で頑張りましたが力不足でした。

国際社会で弱者を守るには学位が必要と思い知り、2006年に入学した東京大学総合文化研究科の「人間の安全保障プログラム」で博士号をとりました。ドイツのボンの国際再生可能エネルギー機関(IRENA)*4にバイオエネルギー分析官として赴任していた2017年、最後には昼は仕事、夜は論文書きで3か月ベッドに寝ず論文を書き上げました。

*4 国際再生可能エネルギー機関(IRENA):再生可能エネルギー(太陽、風力、バイオマス、地熱、水力、海洋利用等)の普及及び持続可能な利用の促進を目的として設立された国際機関。

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