アポなし訪問で林野庁へ!憧れを力に国際貢献の道を突き進む
植村直己さんの笑顔に憧れ、山三昧の学生時代へ
はじめまして。明治大学農学部農学科を1989年に卒業した井上泰子です。
小学生から中学生まで週末に通っていたスイミングスクールで、毎年冬休みに谷川岳の玄関口にある新潟県南魚沼郡の土樽山荘にスキー合宿に連れて行ってもらっていました。土樽山荘のご主人だった伊藤周左エ門さん*1が植村直己さんと親しく、山荘の壁にたくさんポスターや写真が貼られていました。
山頂や雪原で日焼けした植村さんの笑顔。「全然ハンサムじゃないのに、この人はなんでこんなにかっこいいんだろう?好きなことに夢中になって、情熱を傾け、挑戦して生きていたら、こんなに素敵になれるのかな?」などと子供心に思っていました。
憧れが昂じて、植村さんの母校である明治大学の山岳部を目指し受験勉強をはじめた直後に届いたのが、マッキンリーでの植村さんの遭難のニュースでした。それでも、近づきたい気持ちは変わりませんでした。晴れて入学し、山岳部の部室のドアを叩くと「女はダメ」と言われ、部室が近かった体育会ワンダーフォーゲル部(以下ワンゲル)に入部(当時はそうでしたが、現在は女性の部員も活躍しているそうです)。
植村さんのご著書「青春を山に賭けて」*2の冒頭に、上級生のペースで装備を整え、意図せず山岳部員になってしまったという山岳部入部のエピソードがあります。実は私も入学したての歓迎合宿で「蝶よ花よ」とおだてられ、結構な金額になる山靴、ザック、装備を買ってしまって後戻りできなくなったのでした。新人養成合宿からは女子班同期入部のTちゃんと、信じられないような重い荷物を背負い(最大42kg)、新人として鍛えられる山三昧の日々がはじまりました。
当時はバブル。そしてテニスサークルも全盛期。トレンディドラマが流行っており、毎月泥だらけで山から帰ってくる自分たちは合コンにも誘われず(泣)、渋谷の109でボディコンの服を売るハウスマヌカンのバイトをして女子力をキープしようとあがいていました。
*1 伊藤周左エ門(いとうしゅうざえもん)
日本の冒険家の草分け的な存在でありユースホステル土樽山荘(つちたるさんそう)の経営者。単独でグリーンランド島を犬ゾリ2,700km踏破した1971年に植村直巳氏と出会っている。土樽山荘は2009年4月に閉館。
*2 植村直己(1977)「青春を山に賭けて」文春文庫
植村氏が明治大学に入学し登山部に見学に行った際、筆者と同じように、装備に合宿にと上級生のペースで話が進み「部員にさせられた」経緯が紹介されている。
1987年3月明治大学ワンダーフォーゲル部女子班春合宿
ワンゲル心のふるさと「奥鬼怒山荘」。道なき峰を登って
ワンゲルの自慢は、1963年に当時の先輩が設計し、部員172名が夏合宿を返上して資材を担ぎ上げて建設した山小屋「明治大学奥鬼怒山荘」。そこは日光・鬼怒川国立公園のど真ん中、関東地方最大級の原生林のコアエリア、樹棲コウモリが巣をつくる巨木の森にありました。
ワンゲルには4年部員になる前に1週間、道なき峰を藪漕ぎで山を登り続ける過酷な「リーダー養成合宿」を乗り越える伝統があり、その最終地点がこの奥鬼怒山荘となっています。部員は代々受け継がれたこの小屋を大切に、毎年ワーク合宿で防腐剤を塗り修繕し、雪の季節には雪下ろしをして守ってきました。
薪のストーブを囲み、時に訪れるOBの話を聞いたりしながら朝まで語り合うヤドリギのような場は今でも心のふるさとです。建設当時には明治大学OBで三木武夫元首相もご尽力下さったと聞いています*3、林野庁でもこの地域の国有林を奥鬼怒生態系保護地域に指定し、森林総研の研究者をはじめ様々な大学の研究者が定期的に訪れ気候変動による長期的な生態系への影響を調査研究する重要な拠点ともなっています。
*3 明治大学体育会ワンダーフォーゲル部(2013発行)「奥鬼怒山荘50年のあゆみ」に記載されたエピソード。


(左)屋久島・宮之浦岳山頂、ワンダーフォーゲル部女子班。筆者は右端。1988年 (右)日光国立公園、奥鬼怒生態系保護地域の巨木の森に建つ、明治大学奥鬼怒山荘
「これだ」林野庁へアポなし訪問
大学時代所属した育種による品種改良をめざす農学部の研究室では、植村さんみたいに、世界に打って出たいという思いを抱き、アフリカの飢餓が伝えられる中、パパイヤやレイシを温室で育てました。
卒業後、化学メーカーに入社しましたが、仲間とともに縦横無尽に野山を徘徊した学生時代が忘れられず、ある日、偶然手に取った雑誌の記事「林野庁-営林署担当区主任の一日」を見つけ、「これだ」と思い、その雑誌を手に霞が関の林野庁をアポなしで突然訪問しました。
人事担当の人が対応してくれて「どうしたら入庁できますか?」と質問したところ、「まず公務員試験を受けて下さい」と言われ、その日のうちに決心。入社させてもらった化学メーカーには迷惑をかけてしまいましたが、退職を申し出ました。当時は男女雇用機会均等法2年目で、まだ「女性社員は結婚したら退職よ」と入社の日に先輩の女性職員に言われるような時代。退職後、飯田橋にあった全日制の公務員試験予備校に通い、大学受験以来の猛勉強です。
富士山の麓で技術を習得するも、海外赴任目指し朝2時の猛勉強
国家II種行政職で入庁後、1年間の東京勤務のあと、念願かなって営林署担当区主任/森林事務所森林官として富士山の南に鎮座する愛鷹山国有林の2,100ヘクタールの管理を任されました。キャリア30年以上の6人の作業員の衆と毎日山に行き、翌年に山のどの箇所を伐採して植え付けてどのような保育をするか、といった森林施業計画を検討し、造林事業、森林パトロールなどの仕事を教えていただき、森林技術を習得させてもらいました。
その頃、林野庁から約60人がJICAや大使館に出向し、海外ポストへ赴任したことがありました。当時は女性職員も少なく、女性で海外に行った人はおらず、第1号として出してもらうには、国家I種(総合職)で入庁しなおしてやる気を見せなくては、と思いました。毎日、国有林の現場作業から帰ってからなるべく早く寝て、朝2時に起きて勉強して国家公務員I種試験(林学職)に応募し、翌年改めて林野庁に採用してもらいました。
この結果をワンゲルの鈴木善次郎監督がとても喜び、前後の代の女子班が集まってお祝い会を開いてくださいました。同期が全国から集まってくれたことがとても嬉しかったです。 次のページへ続く